本日は、令和2年(2020年)8月13日(木)
【東京・四ツ谷の経営コンサルタント
元キーエンス(→アンリツ)社員、
中小企業診断士の立石です】

終戦の8月15日
毎年私は、靖国神社に参拝しています(今年で20年目になります)。

なぜ?
それは『父との約束』だからです。

ただ、英霊として祀られているのは
戦死された軍学校時代の父の同期生。

生前の父親との約束で、
私が参拝しています。

戦時中に父親が陸軍にいたことは、私が小さい時、
知らされていれました。

私が小学生の頃、軍学校の同期生と集まる会合の
案内状が自宅に届きました。
父は『ああ懐かしいな。是非行きたい』と
すぐ主催されている方に、参加の旨の電話していたのを覚えています。

会合といえば、通常はお酒の席でもあります。
私の父は、お酒が大好きだったので、
宴席に出かけた日は、帰宅した後も引き続き陽気な様子で
もう1本呑んで就寝というのが通例でした。

ただ、その会合当日だけは違っていました。
帰宅した父は、無口で別人のようでした。

玄関で母親と出迎えたところ、肩を落とした様子。
『お酒用意しますか』の母の問いかけに、
静かに『いや、風呂に入ってすぐ寝ます』とだけ。

私が、母に『元気が無いね』と尋ねたところ
『厳しい軍隊時代の思い出かもしれないから、
今日のことは、聞かないでおこうね』と。

以後、この日の話題がでることはなく、
そして、父親から
戦時中のことを語られることは一切ありませんでした。

ようやく明らかに

月日は流れ、21世紀になって父親が入院。
本人も死期を悟ったようで、
いろいろ遺言めいた話題もでます。

一方の私も、どうしても父に
聞きたいことがありました。

戦時中の徴兵制度は20歳以上が対象。
終戦の昭和20年(1945年)時点で父は17歳。
どう考えても若すぎる。
どういう経緯で、従軍したのかという点です。
そしてどんな任務についていたのかも。

病床の父から、順に語られていったことをメモにしました。

当時の義務教育は小学校(6年間)。
卒業後、工業系の学校に進学したものの、実父(私の祖父)が急逝。
そして米国と開戦。

兄弟の多い家計が、日々苦しくなっていったと。
そんな矢先、陸軍の少年飛行兵の募集を知った。
軍にいれば、三食支給されるので
母親に負担をかけない。
ここで中退を決めたと。

まさかの症状で

少年飛行兵、
いわゆる戦闘機の搭乗員(いまでいうパイロット)という花形なので、
応募も多数。ゼロ戦は海軍、陸軍は隼(はやぶさ)戦闘機。
筆記試験等を経て、後日に身体検査。
ところが、身体検査当日、
父は運悪く風邪をこじらせた状態。

軍医から『どうも中耳炎の症状がある。
急激な気圧の変化に耐えられないから、
戦闘機の操縦は無理だ。残念だがあきらめろ』とその場で不合格。
中耳炎の症状なんて生まれて初めて。
(後に綴りますが、災いのようで天運となります)。

この先どうしようかと、目の前が真っ暗になっていたところ、
その一週間後に、陸軍の将校2名が、
突然自宅を訪ねてこられたと。

母親(私の祖母)と二人で応対。
当初、不合格の通知の為に、
わざわざ来られたのだろうと、
恐縮していたと。

まず『身体検査、残念だったね』
優しく労われた直後、
『実は相談に来ました。君は筆記試験が優秀、
特に幾何(おそらく現在の三角関数の類)の難問は、
正解者がほとんどいない中で満点答案。
幾何の知識は、通信の分野には欠かせない。
わが陸軍の、航空通信の分野に進むのは、どうですか?』

父は航空通信と聞いて、
どんな任務か想像がつかなかったと。
返事に窮していたら
将校の方が、
輸送機の通信兵として、空を飛べるということです』。

父は、戦闘機の操縦はだめでも、あこがれていた飛行機に搭乗できること、
そして家計のことも考えていたので、
その場で決断したと。

当時の徴兵制度では、20歳で入隊して階級は2等兵から。
将校の方から、
『まず、通信専門の学校に入校してもらいます。
訓練期間6ヶ月。修了した時点で上等兵として部隊配属。
1年後、兵長に昇進します。
若い君には、悪く無い話だと思います』
キツイ軍隊、志願兵が優遇されていたわけです。
(2等兵→1等兵→上等兵兵長→伍長→・・・)

遠く離れた関東の航空通信専門の軍学校に入校

航空通信専門の軍学校に入学(全員寮生活、いわゆる兵舎住まい)。
同期は10代(19歳以下)の少年兵、約100名。
15歳だった父は、一番の年少だったと。

通信といえば、現在は携帯電話(双方向で音声会話が可能)が最先端。

戦時中は、音声通信の機器もあったが
通信の主流は【電信】
・・・いわゆるモールス信号
電鍵(でんけん)を叩いて打点トー・ツーを発信。
もちろん敵に傍受されることも想定して
暗号通信も訓練。

通信の分野といっても、そこは旧日本陸軍

教室の前に貼られていたのが、
一打必通の精神
陸軍の精神主義そのままに
『気合いをいれれば。より遠くに電波が届く?聞こえない信号も聞きとれる?』

詳しい記事にはしませんが、
厳しい訓練(砂浜での体育・銃剣術・実弾訓練・夜襲)、命令には復唱あるのみ(絶対服従)、
制裁、連帯責任・・・陸軍に入隊経験のある方が、
本や記録で紹介されている、まさにそのものの毎日。

同期の生徒

全員志願入隊の15~18歳位の生徒は
さまざまな顔ぶれ。
太平洋戦争のさなかなので、
志願する動機は、全員が国のためにという
愛国心をもっていたのは間違いない。
但し、父と同じく、家庭事情も考慮して志願した方も
少なくなかったと(表現が妥当ではないですが、口減らし)。
地方出身者によっては、毎日三食の白米が、とても贅沢だと感激した者もいたと。

そんな中で、(富農の流れを汲む?)とても裕福なご子息。
本人は、軍隊なんてまっぴら御免と思っていたが、
お父様から『忠節を尽くせ』と強制的に送りこまれたと。

秘密の楽しみ。たまの『駄菓子』

軍学校にお菓子を持ち込むことは、禁止(言語道断)。
ところが抜け穴があったと。
門の近くに駄菓子屋さんがあり、
実家からの手紙を留めおいて頂けた。

手紙の中には、仕送り(現金)が同封されていて、
すべてを駄菓子屋のおばさんに預ける。

帳面に残高を記録してもらって、駄菓子の購入に充てる
・・・もちろん重大なルール違反。
軍学校側は把握していたはずだが、
親元離れて暮らす10代の子供に配慮して、
黙認していたに違いないと。

父も、わずかではあるものの、仕送りの恩恵を受けていましたが、
なかには、仕送りの無い者も少なくなかった。

そこで前述の裕福な同期。
お母さまから、毎回相当な額の仕送り。

手紙だけで仕送りの無い同期生に、一緒に食べようと誘いだします。
遠慮している者に『同期だからいいじゃないか、食べる時も死ぬときも一緒だ』と、
気前よく駄菓子を振る舞います。
父は、その光景を見て、
頭脳明晰なおぼっちゃまなのに、豪放磊落。
かっこいい奴だなと思ったと。
続きは修了日からのことを綴ります。

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