本日は、令和2年(2020年)8月22日(土)
【東京・四ツ谷の経営コンサルタント
元キーエンス(→アンリツ)社員 中小企業診断士の立石です】
尊敬する云々は別として、
個人的に気になる、天才的な人物(将軍)を綴ります。
私の耳学問より詳しい内容(むしろ、より正確な情報)は
ネット情報で手に入ると思います。
間違っていたら、すいません。
今回ご紹介する将軍。
ハインツ・ヴィルヘルム・グデーリアン(最終階級ドイツ国防軍上級大将)(1888~1954)
(以下、グデーリアン )
戦術の天才です。
軍で将校(少尉以上のエリート)に就くには
選抜試験を経て士官学校を卒業(してほどなく少尉任官)が、
近代以降では常識。
ドイツの正規軍である【ドイツ国防軍】の将校は、
ユンカーといわれる地主貴族の子息の比率が多かったようです。
グデーリアンは、ユンカー出身でなかったようですが
名前のまんなかに、○○リッター◎◎、△△フォン□□と称されている将軍は、
ほぼユンカーや王国貴族の出身です。
それまでの戦場(塹壕戦)
第一次世界大戦当時のヨーロッパ。
陸の戦いといえば塹壕(ざんごう)戦。
それぞれの軍が、穴や幾重にも続く
川のような溝を掘って兵士を配置。
相互がにらみあう。
適宜突撃して、相手の塹壕を制圧して進む。
ところが、相手方も防ごうと機関銃や大砲で応酬。
繰り返される戦闘で、双方おびただしい犠牲が出るが、一進一退。
戦線は膠着のまま。
打開するために毒ガス(第一次大戦後使用禁止)も使用され
多くの犠牲を出しました(当時、伍長として従軍した
後の総統ヒトラーもガスで負傷)。
一方のグデーリアンは、第一次世界大戦従軍時、
無線の分野を経験していたようです。
そして第一次世界大戦で敗戦国となったドイツ。
ヴェルサイユ条約で、当初は塹壕戦打開のための兵器であった、
戦車や航空機の保有を禁止されていました。
ところが、ドイツとソ連が接近して、1922年にラッパロ協定を締結。
実は秘密条項があって、ソ連の領内でドイツ軍の戦車、飛行訓練が認められ、
ソ連もドイツ軍から指揮・訓練を学べるという蜜月の関係に。
このあたりから、グデーリアンが注目を浴びます。
戦車を集めた機甲部隊を創設
多数の戦車の同時集中運用。
但し、それでも主力は歩兵部隊。
従来の馬(車)から、迅速に移動させるためトラックやオ-トバイを
随伴させる。
戦車どうしの連携を図るため、
各戦車に無線を搭載。
さらに、航空機(急降下爆撃機シュトゥーカ)の支援で
正面の敵をたたき、速やかに進軍して、
相手方に塹壕を構築させる時間を与えない。
そして敵軍を包囲する戦術(ヨーロッパ戦線では、通常相手方は降伏)を
練り上げるわけです(電撃戦)。
ただ、陸軍の老将軍達は、戦車の集中運用による前線突破に関心が無く
グデーリアンは、当初冷遇されたようです。
窮地に陥ったのですが、不毛な塹壕戦を経験したヒトラーは
グデーリアンの先見性を見抜いて、重用しました。
第二次世界大戦開戦
1939年
ドイツは東隣のボーランドに侵攻(独ソ不可侵条約にもとづき
西半分はドイツが占領、東半分はソ連が突如侵攻して進駐)
そして、
後の西部戦線(おもに対陸軍大国フランス)でも、グデーリアンは大戦果をあげます。
1940年対フランス戦
フランスはドイツ国境付近に、塹壕を要塞化して大砲まで装備した
まさに難攻不落の【マジノ線】を構築済み。
ここで、ドイツ軍(グデーリアン)は【マジノ線】を回避して、
当時、戦車は走行できないとされた、アルデンヌの森を突破して進軍。
超高速で英仏連合軍をダンケルクまで追いつめるという、
離れ業をやってのけます。
1941年6月22日に開始されたバルバロッサ作戦(ドイツによるソビエト侵攻)
グデーリアンは、中央軍で装甲軍を指揮。
まさに快進撃。ソ連は、ドイツの戦車で太刀打ちできないT‐34戦車や兵力で圧倒的に勝りましたが、
何故かドイツに連戦連敗。
その理由として、独ソ戦前のスターリンの大粛清で
優秀な将校が、大量処刑されていたのも敗因のようです。
ところが、1941年10月からの首都モスクワ攻略作戦あたりから
ドイツ軍の快進撃が止まります。
原因は、伸び切った戦線の補給と、のちの冬将軍(厳冬)。
当初ドイツ軍(特にヒトラー)は、ソビエトを短期間で攻略できると考えていて
冬の装備を持たなかったとか。
グデーリアンは、いったん作戦中止で後退を進言しましたが、
ヒトラーが激怒して、解任されてしまいます。
そして、ドイツの同盟国であった日本。
この独ソのモスクワの戦いのさなかの
1941年12月8日に日本が対英米開戦。
残念ながら、この時以降のドイツの破竹の勢いはストップ。形勢が逆転していきます。
独ソ戦の裏側
もし※※※ならソ連敗戦が確定。
※※※作戦開始が1ヶ月早ければ・・・
(実際は)
かつてナポレオンが、ロシア遠征で冬将軍で苦戦したことを
ヒトラーは熟知していて、当初5月に作戦開始を計画。
ところが、ユーゴの鎮圧に時間を要して、皮肉にもナポレオンと同じ6月に作戦開始に至りました。
※※※ソ連のスパイ(ゾルゲ)が日本の機密を得られなかったら・・・
(実際は)日本軍が北進(ソビエト領侵攻)せずに
南進(東南アジアで米英オランダを駆逐して資源確保)するという情報を得て、
ソビエト本国に打電。
結果、日本の進軍に備えていたシベリア方面の兵力を
モスクワ方面に急きょ移送して、ドイツ軍に対抗することができた。
その後のグデーリアン将軍
グデーリアンと同じく
大戦中、戦線で敗北した将軍や、
ヒトラーに異論を唱えたり、後退要請した将軍は、
たくさんいました。
ヒトラーは、都度激怒しますが、
残虐さでは、ソビエト共産党と同じナチス党政権なのに
意外なことに将軍は処刑されずに、
主に【解任】か【更迭】。
生命は何とか保証されていたようです
(後のヒトラー暗殺未遂事件は除く)。
ちなみにソ連は、作戦失敗・撤退した将軍に対しては、容赦ありません。
正規軍とは別組織である党の政治委員(政治将校)が軍に随伴して、
督戦(後退する兵士に銃撃)したり、将軍の処刑を実施。
戦後、スターリンの死後に指導者になるフルシチョフも政治委員として
スターリングラードの戦いに参加しています。
さて、その後のグデーリアンは
ソ連のT‐34戦車に対抗する、世界最強のティーガー戦車等の
軍備の生産計画の責任者に従事していたようです
そして参謀総長に復帰して、
迫りくるソ連軍に対してドイツ本国防衛の任務に就きます。
しかし、ドイツ降伏1ヶ月前に、作戦を巡ってヒトラーと対立。
またもや解任されてしまいます。
戦後、アメリカ軍に投降
米軍の捕虜となった後、戦犯を裁くニュルンベルク裁判では
証人として出廷しましたが、
訴追はされませんだした。(戦後、もしソ連に投降していれば
人民裁判の法廷を経て、おそらく命はなかったでしょう)。
そして、釈放された後に渡米。
米軍の要請で
戦車学校の教官として教鞭を執ります(米軍が訴追しなかった本来の意図?)。
米国からすれば、敵国の将軍でありましたが
米軍の関係者も生徒も、【有能な偉大なる将軍】として最大の敬意を表して接したようです。
そのあと西ドイツに帰国。1954年に死去。
ここからは、無理すじのご案内(ご容赦ください)
戦術という用語も出ましたので・・・
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